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エディットピアフは『愛の讃歌』を
歌っていたシャンソン歌手の大御所です。
2007年に映画『エディット・ピアフ 愛の讃歌』
が上演され再び注目を集めています。
エディットピアフ(Edith Piaf 1915/12/19~1963/10/11)は世界が認めるフランスの超大物シャンソン歌手。
『愛の讃歌 Hymne a l'amour』を始め、『ばら色の人生 La vie en rose』『ミロール Milord』など数々の名曲を歌っている。
その人生は、まさに波乱万丈。自由奔放、力のある限り、やりたいことをやりぬいた人生といえるでしょう。
幼い頃から波乱に満ちていたが、人生の後半も自動車事故4回、自殺未遂1回、麻薬中毒療法4回、睡眠療法1回、肝臓病の昏睡3回、狂気の発作1回、アル中発作2回、手術7回、気管支肺炎2回、肺水腫1回などなど、平穏などとは程遠い人生です。
その間、結婚も2回し、最愛の恋人の死に別れも経験している。
エディットはシャンソンを歌っていた母と、何人の妻がいたかわからない香具師(やし)の父との間に生まれる。場所はパリ。父親は自分の子供が何人いるのかせ覚えていなかったそう。
生まれた場所もナント街頭。夜中の3時、急にお産が始まり、ベルヴィル街72番地の外灯の下の警察のコートの上で生まれた。人生のスタートから並の人間で無いことが想像できますね。
エディットという名前は母親が当事の英雄的女スパイ、「エディス・キャベル」から取ったといわれています。
エディットは幼少の頃、目が全く見えなかった。しかしそのことで、聴くという事に人並み以上の感受性が産まれたそうです。
その後、リジューという地方へ祖母が巡礼に連れて行った際、奇跡が起こる。
巡礼の夜、祖母の売春宿で働いていた売春婦らがエディットがピアノをいじっているのを見て
「もう寝なさい」という。
しかしエディットが「嫌よ、見えるものがとてもキレイだから」
といったことでビックリ仰天!
それ以来、エディットにも信仰の思いが深く刻まれる。
その後、父と不仲になり、ストリーシンガーに。
しかし、すぐに義理の妹と共に人生を歩み始める。それが「シモーヌ(モモーヌ)・ベルトー」。
後にエディットの人生を「物語」として執筆しています。(愛の讃歌―エディット・ピアフの生涯 (1971年))
16歳で恋人との間に子供を作りましたが数年で亡くなったようです。
その後、とあるナイトクラブで歌を歌うようになり、そこでは「小さなスズメ(ピアフ)」という愛称で親しまれ、エディットピアフという名前が誕生します。
ところが、そのオーナーが殺害され、ピアフにも殺人の容疑がかけられてしまいます。(その後、無実と証明)
1940年、あの映画監督・芸術家でもあるジャンコクトーが彼女のために脚本を書いたり、モーリス・シュヴァリエ(フランスの大俳優)とも知合いになります。
第二次大戦中に「ばら色の人生」を作り、彼女は大きな成功を収めます。
戦後もヨーロッパやアメリカなどで公演をし、ドイツの大女優と生涯の中になったり、自ら才能を認めた歌手を後押しするなどプロモーション活動にも力を入れていたようです。
愛の讃歌は1949年、恋人のマルセル・セルダン(ミドル級チャンピオンのボクサー)の死をきっかけに作られました。
その2年後、交通事故に遭いそれ以来、モルヒネ中毒にかかってしまいます。
いったんはやめるが、また繰り返し、入院。それが何年も続きます。
その1年後には結婚をしますが数年で別れ、1962年にピアフの一ファンであった俳優、テオ・サラポと再婚をします。
しかし、そのわずか1年後、ピアフは癌で亡くなりました。
作者のシモーヌによるとテオ・サラポは彼女の死期を感じていたのにもかかわらず結婚をしたようです。
また、ピアフが残した莫大な借金も独力で返しました。それほど彼女を愛していたようです。
愛の讃歌―エディット・ピアフの生涯 (1971年)の中で、ピアフはこう言っています。
「ねえ、モモーヌ(シモーヌ)、あたしずいぶん恋愛をしたけど、一人の男しか愛さなかったわ。マルセル・セルダンよ。そして一生のあいだ、あたしは一人の男しか待っていなかったの、それはテオ・サラポよ・・・。」
病床であったジャンコクトーも、彼女の訃報を聞いてか、同日の4時間後に亡くなったそうです。
エディットピアフは今でもフランスで絶大な人気がありレコードも売れ続けているそうです。
パリには「エディット・ピアフ博物館」が立っています。
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